泣く子ども。
怒鳴るママ。
ママがいなくなったら代わりに怒るパパ。
泣く子ども。ループ。
飯が不味くなった。
— 大村康太@パラグアイ🇵🇾 (@KotaOhmura) 2018年4月6日
すごくすごく心が痛む。
食育が大切だというのはすごくわかる。
でも、ご飯の度に子どもを叱る現場にいながら飯食うのは辛いんだな。もうね、ホームステイ先で一緒に飯食いたくないよね、普通に。体罰が起きている現場で、家庭の事情だからといって何も口出しできない状況。
ただただ辛い。
— 大村康太@パラグアイ🇵🇾 (@KotaOhmura) 2018年4月6日
ホームステイ先で、ぼくの目の前で体罰が行われた。
日本でも問題になっている体罰。
その体罰が、パラグアイの、ホームステイ先で行われた。
とても痛々しい。
- 教育なのか?
- それとも感情を抑制できないただの暴挙なのか?
- 暴力が子どものしつけにつながると思っているのか?
どういう理由にせよ、暴力だ。
それが、ぼくの目の前で平然と行われたことがとても悲しい。
子どもも泣いていたが、ぼくも心の中で泣いた。
平然と行われたこと。
そしてママが体罰をしている時にパパも黙認していたこと。
それを部外者のぼくは見殺しにしかできないこと。
嫌な感じだ。
平然と行われる、黙認されるのは、きっと暴力によるしつけが当たり前だからなのだと思う。

家族の文化って違う。だから家族のあり方、教育とか、そんなのも全部違う。
ペットと人間は違う。
言葉が通じるから。
だから、ペットのように我が子を暴力によって統制しようとするのは個人的には違和感だ。
ただ、これが文化なのだとしたら何も言えない。
暴力が解決する問題ってないのに。
話はちょっと変わるけど、ぼくがホームステイ先とご飯を一緒に食べたくない理由はここにある。
食卓にみんなが座ってご飯を食べると、決まってママは子供を叱る。
気持ちわわかるんだ。
食育は大切だってこと。そして、子供がいつまでも食べないと心配してしまうこと。
分かる。
ただ、ぼくにしてみれば、数少ない心落ち着く時間だから、ご飯の時間って。
そんな時間に毎日叱る声を聞きながら、子供の嫌がる顔を見ながら食事するのってかなりしんどい。
ママは、ぼくが自炊すると決まった時、「わたしたちはあなたと一緒に食べたいのよ」と言った。
でもぼくはもうそう思えない。
だから一緒に食べたくないんだ。

切り身のような骨なしの肉でもナイフとフォークが使えない。だから手で食べる。それを体罰で叱るママ。
毎日のように不穏な空気が流れ、時には体罰。
いったい誰がそんな環境で一緒に食べたいと思うのだろうか?
郷に従えないぼくが悪いのかもしれないけど、ぼくはそこまでして郷に従う必要はないと思っている。
話は戻って、実際目の前で行われている不条理な体罰に対しても何一つ口出しせずに見殺しにしかできない、そんな状況ってすごく居心地が悪い。
日本的な感覚なのだろうか?
何もできないぼくは同じ加害者のような気持ちになってしまう。
それでもこれが当たり前の文化だとしたら、それすらも受け入れなければならないのだろうか?
文化の違いなのか、それともホームステイ先の家族の文化なのか、それはわからない。
ただ、そんな不条理な体罰がぼくが生活する現場で行われていることが悲しい。
子供の行為に対してそれを律するために行われる体罰。
- それが正義だと思っているということ。
- 実際に同じ現場で行われたとき、ぼくには何もできないということ。
それが分かった。
文化を一方的に否定することはできないけど、どう考えても暴力による統制はメリットがないと思っている。
誰も楽しい気持ちにならないし、それは教育でなければしつけでもない。
日本でもようやく暴力での教育が問題視されるようになったけど、
暴力による謎の”教育”がなくなりますように。

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