選手の走りを見てどうだったとかいいとか悪いとか、そういう話を選手とするけど、ようやく選手自身が指導者という客観視点と自分の主観の相違を主張できるようになった。
指導者は選手じゃないから最終的には自分の感覚だよ、ということを言い続けてきたことが選手の競技の血肉になってきた。
— 大村康太@パラグアイ🇵🇾 (@KotaOhmura) 2019年1月24日
選手と指導者が練習中に感覚的に違いを感じるとき、それはとてもいいことだと思います。
というのは、指導者はあくまでも外から見た選手しか理解できないからです。
選手がもっている感覚に介入することは絶対にできません。
だから、例えばフォームはいいと指導者が思っていても、選手は感覚が悪いと言ったら、それはどうしてかということを話す必要があります。
そういう場合、じゃあ次はどうやって走ったらいいかということにつながります。
人間の体は外的にも影響を受けるし自身の体調もあるので、常に走りの感覚は違います。
その違いがあるからこそ、選手は指導者とよく話す必要があるし、指導者は自分の視点だけが絶対ではないという意識は持っておくべきです。
選手と指導者があーだこーだ話している中にヒントがあるばず。
ましてパラグアイの陸上競技は選手が指導者に完全に依存している関係性なので、選手が主張すること、そして指導者が選手が主張しやすい環境を作ることは重要です。
これも文化の違いといえばそれまでなんでしょうけど、陸上競技自体は世界共通。
個人的には、特に指導者が全体的に努力する必要があるように感じます。

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