2019/8/12の記録
「こーたが知らない指導者がこーたが指導する選手の結果や練習での変化を見てすごく興味を持ってる。」
— 大村康太@プロコーチ (@KotaOhmura) August 11, 2019
という話を選手から聞いた。
その指導者はぼくが来てからの変化を感じているらしい。
これが意味するのは「ボランティアがいることがプラスに作用した」ということ。
ぼくが今までの活動で1回も話をしたことがない指導者がツイートに書いてあるようなことを言っていたそうです。
この指導者は今ぼくが指導している選手の以前の指導者だったようで、その選手と前の指導者が会話をしたらしいのです。それを選手がぼくに伝えてきました。
確かにその指導者が受けた印象ってインパクトが大きかったと思うんですよね。なぜならぼくがアスンシオンで活動をしてるのはだいたい1年程度だし、その短期間で選手の見違えるような変化があったからです。
でも、別にぼくは特別な何かをしたわけではありません。普通にやることをやった。ただそれだけです。
だからパラグアイ人は劣っているとかそういうことではない。要は陸上の知識云々ではなく、そして選手ではなく「人」をどう育てたらいいかに着目してずっと活動をしてきた。その手段が「会話」だった。
— 大村康太@プロコーチ (@KotaOhmura) August 11, 2019
陸上は大切じゃない。
人としての成長があって陸上も伸びていく。
大切なのは「人としての成長」。
パラグアイにいて強く感じることがあります。それは
陸上競技の競技力を向上させるために「陸上競技」を教える
傾向が強いということです。
別にそれで選手が強くなれば悪くはないと思いますが、今までの歴史の中で陸上競技だけを教えてきたパラグアイ陸上競技は強くなってませんからね。パラグアイにとって「陸上競技を教えることに特化する」ということはあまりうまく作用していないんじゃないかなと感じます。
じゃあ何がパラグアイ陸上競技に大切かを考えると、
- コミュニケーション
- 教育
この2つだと感じています。
ぼく自身もひとりの指導者でしかないので指導に対する正解はわかりません。日々模索しています。
確かに各選手の競技人生は人生におけるわずかな時間しか占めていません。だからその選手が陸上を離れるまでに少しでも競技成績を向上させたい、という指導者の考え方もわからなくはありません。
この考え方は日本でもあると思います。特に強豪校と言われる学校ですね。
ぼくはこの考え方に対して否定的ではなくむしろ肯定的です。
なぜなら競技人生には時間のリミットがあるから。時間のリミットがある以上、その時間を考慮した指導というのはとても大切だし、競技成績をガツンと伸ばせる時期も一定期間あります。でも「あとで記録が出るように」と考えながら指導してそういうチャンスを逃してしまうと意外とそのあとにチャンスに巡り会えないんですよね、不思議ですが。
今ここにあるチャンスと未来に巡り合うであろうチャンスは連動している、ということです。
だからぼくは結果を求める指導には肯定的です。
では、なぜパラグアイも同じように結果を求める指導をしているのに結果が出ないのか。それが先に挙げた
- コミュニケーション
- 教育
が足りないから、ということになります。
コミュニケーション不足によって指導が指導者から選手への一方向になっているので選手は考える能力を身につけることができません。また指導者と話し合うこともできないので必要なことを取捨選択することもできません。
あれもこれもやって強くなるって非効率です。目的を見失ってしまいますからね。
指導して選手がある動きができるようになったとしても、それはただ身体が動いただけという可能性があります。つまりできたけど理解していない可能性があるということです。この状態だと自分がいったい今何をしているのかを理解できません。理解していないと再現もできません。言われたことができることと言われなくてもできるようになるは違います。
だからコミュニケーションが必要なんです。情報量が増えるし理解が深まるからです。
また、コミュニケーションを重ねるうちに選手はたくさんの情報を頭の中に取り入れることになります。そうすると必然的に古い情報と新しい情報を比較するようになります。これらの情報がトータルとして役立つと考えることができるようになればより練習効率が上がってパフォーマンスの向上を期待することができます。
この一連の流れが教育的な意味を持ちます。
「時間を守る」とか「道具を片付ける」とか、これらのことも教育的な意味を持ちますが、今は別の話で。同じ練習をするにしても
- 考える
- 考えない
たったこれだけの違いで陸上競技が教育的な意味を持つようになるんです。これが圧倒的にパラグアイには足りません。
考えることができるようになって初めていろいろな情報につながりができるようになります。今までは別々に存在していた情報があるときビビっと電気信号が通ったかのようにつながる瞬間があります。ひらめきというやつですね。これは教育という土台がないと現れません。考えることができないからです。
今のパラグアイの現状は毎日新しいことを指導したとしても次の日には「忘れた」という感じ。仮に忘れていなくても昨日教えたことと今日教えたことを関連できない状態。常に別々に存在して結びつけることができないから強くなれないんです。
長々と書いてしまいましたが、
- コミュニケーション
- 教育
これらはセットです。
技術的に大切なことももちろんありますが、それはこの2つのことができて初めて自分の能力として身につくもの。これらができて本質を理解することができるからです。
だから技術は大切ではあるけど、まず最初にやることがあるよね、というのがパラグアイ陸上競技を見ていて感じることです。
競技力向上という目標に対して何を教えたかではなく「何をどう教えたか」ということが重要。
何をどう教えたかの先に選手以前に人間として身につけてほしいこと、これが目的としてあって、その目的を達成する過程の中で結果として競技力向上があるという感じです。
競技をすること自体が目的になってしまったら競技力向上は難しいと思います。
ぼく自身の考えは
- 競技をすることは手段で、目的は別にある
- 目的を達成しようとする過程の中で記録向上という目標を達成することができる
こんな感じ。その目的に「人としての成長」があるからこそ、特別真新しい練習をしなくても選手の競技力が向上したと思っています。

コメントを残す