20時半頃に練習が終わって帰ろうとしたときにぼくが指導しているトップ選手と話をしたんだけど、本当に考えが日本人みたいになった。
前は人任せだった陸上競技が、今は自分のためにやる陸上競技に変わったし、常に何のためにやるのか、どうやるのかということにフォーカスできるようになっていた。
— 大村康太@パラグアイ🇵🇾 (@KotaOhmura) 2018年12月5日
今のやり方に効果を実感してぼくのことを信頼してくれていることも感じた。「こーたが帰ったあと、練習見てもらうのに日本に行かなきゃ。お金貯めないと。」って。実現可能かどうかはおいておいて、そういう話が出ること自体がぼくもうれしかった。
本当にぼくも彼らの期待に応えたい。
— 大村康太@パラグアイ🇵🇾 (@KotaOhmura) 2018年12月5日
とにかく思考の成長が大きい。
最近、強く感じることです。
とにかく練習に対して主体的になったし、言語化できるようになりました。
例えば、
- 前はカウンターパートからのメニューをそのままやるだけだったものが、今は自分で必要なことを考えてできるようになった
- 必要なことを考えるにあたって、自分の動きをビデオで確認して何を改善するべきなのかを考えられるようになった
- 自分の感覚を言葉でしゃべれるようになった
- 基本練習と実際の走りとのイメージを結び付けられるようになった
- 自分がどのくらいの力を発揮していて、その結果としてどのような動きが導き出されるかということを考えられるようになった
とにかく、ぼくから見たら「ザ・アスリート」の思考になってきました。
これをやれば強くなるという魔法の練習は存在しないし、各選手でいろいろなことが違うからこそ、取り組むべき課題も違います。
だからこそ、自分のことをよく観察して理解する必要があります。
それを選手たちはできるようになってきました。
この変化が見られるようになってから、とにかく動きの質が変わりました。
思考の成長があるから競技の成長スピードも加速している感じ。
日本のトップ選手である100mの山縣選手は「走る哲学者」と言われていますが、実際、「誰もが走る哲学者でなければいけない」というのがぼくの意見です。
なぜなら、提示された完結している正解というなのトレーニングばかりしていたらいずれ限界が来るから。
そして、常に問を立てる哲学的な思考の中には限界がないからです。
限界がないからこそ、次の問を立てて、探究して、そして新しい世界を見ることができます。
その繰り返しの中に「バーンアウト」とか「飽き」というものは存在しません。
だからこそ、トップを目指す選手ほど、「走る哲学者」でなければならないと思います。
ぼくはよく「陸上競技選手はアーティストだ」と選手には伝えていますが、トレーニングの方法に正解不正解はありません。
でも、間違いを避けることは不正解です。
正解も不正解も経験することで自身の感覚や競技に対する推測の閾値がどんどん高まっていきます。
逆にこれをやらなければいつまでも選手のキャパシティは大きくなりません。
キャンパスに描くからいろいろなことが見えてくる。
描かなければ何も始まらないし、始まらなければ変化もない。
繰り返すことで変化が出てきて自分の色が出てくるし、個性が洗練されていく。
競技者はまさしくアーティスト。
とにかく、いま、ものすごい勢いで思考の成長を見て取れます。
数値化できない成長。
でも、これがなければ何も始まりません。
彼ら自身が成長したいと思っていても、これがなければなにをやっても変化はありません。
彼らは、ようやく自分で変化するための基礎を身につけることができつつあります。

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