2019/3/15の記録
活動がうまくいっているかいっていないかと言われたらぼくは「うまくいっている」と思います。
その理由は活動を絞っているからです。
ぼくの活動はそんなに多くありません。最近の活動時間、というか競技場にいる時間は1日2~3時間程度。夏場(パラグアイは大体12~3月)はパラグアイは鍛錬期で午前と午後の練習を見ていたのでより長く競技場にいましたが、今は午後のみの練習を見ている状況です。ほかの職種の隊員と比べたら活動をしている時間も取り組んでいるプロジェクトの種類も少ないかもしれませんが、ぼくはこれでいいと思っています。なぜなら、活動時間以外はずっと陸上やそれ以外のスポーツから勉強しているし、指導の仕方や心理学にも触れているからです。
今ある知識だけでもきっとパラグアイの陸上競技を発展させるために貢献することはできるでしょう。でも自分の能力が現状維持であれば求める結果を手に入れることはできません。もちろん競技は選手が主体となって取り組むものですが、指導者も同時に選手とひとつの目標に向かって努力する必要があります。指導者にも努力や熱意が必要だと思うのです。だからぼくはこの陸上競技をより発展させる手伝いをするために、まずは自分が成長しようと努力しています。そしてそれが確実に活動に生かされています。
ではなぜ勉強を活動時間以外に勉強しているのかというと、それはより効果的な練習方法を提案するためです。陸上競技に限らずですが、「頑張った分だけ報われる」と思って物事に取り組んでいる人は少なくありません。実際頑張ることは大切です。でも努力量と成果は比例関係にありません。
努力とは何なのか?
陸上競技であれば練習量をこなすことが努力ではありません。記録を向上させるためのあらゆる手段が努力になります。つまり身体を動かすこと、勉強すること、よく眠ること、よく食べること、考えること、全てが努力です。
パラグアイの陸上競技は「努力とはもっとたくさんやること」という考え方があるように感じます。頑張るは100%を出すこと、たくさんやること、指導者に自分は頑張ったとアピールすること、いろいろありますが、根本的に努力の本質を見失っています。
そもそも努力は言われてやることではありませんし、選手自身が努力したという判断をするべきではありません。努力したかどうかは指導者が判断することです。選手自身が掲げた目標に対して自分がやるべきことを理解して取り組んでいるか、そのプロセスは客観的に見なければ正しく理解できない。だから努力をしたかどうかの判断は指導者の仕事です。たとえば選手が努力したと主張しても結果が出なかった場合、それは本当に努力というのでしょうか?きっと違います。
努力には
- 正しい努力
- 間違った努力
があります。間違った努力をしていても競技成績が伸びることはありません。簡単に言うと正しい努力はやるべきことを理解しそれを100%やること、間違った努力はやるべきことを理解せずに闇雲にとりあえず行動することと言えますが、結局正しい努力か間違った努力かは「最終目的と目標があるか」というポイントに尽きると思います。
目的や目標があらかじめあるからこそ、それを達成させるための手段を考えることができます。たとえば100mの選手を指導するときに12秒を目指すのか、それとも11秒を目指すのかで手段は変わります。11秒を目指す選手が12秒を目指す選手の目的や手段でやってもそれは方向性が違いますよね。自分が登る山のてっぺんが決まれば自ずとやることが決まる。正しく効率的に登れれる道があるのにわざわざ森林をかき分けて登らないですよね。同じことです。森林をかき分けても頑張れば登れますが、それは本当に正しい努力ということができるでしょうか。
よって「頑張った分だけ報われる」は間違いです。正しい努力をした人が報われる可能性があるのです。だからぼくは青年海外協力隊の活動や自分が指導者として最善を尽くすことができるように「正しい理解」をする努力をしています。

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