大村康太のプロフィール
名前:大村康太
生年月日:1992年7月1日
出身:青森県八戸市
出身校:八戸高校⇒東京学芸大学生涯スポーツ専攻
職業:青年海外協力隊(2017年2次隊、パラグアイ、陸上競技)
初めまして!
大村(@KotaOhmura)です!
ぼくは「常識にとらわれない非常識で自由な生き方」を自分勝手に追求する、社会不適合者です(笑)
人間って本来もっと自由に楽しく生きていい、もっと自由に人生をデザインできるはずなのに、社会の常識に縛られて息苦しい人生なんて送りたくありません。
- 自分勝手はダメ?
- 空気を読まないといけない?
- 安定した生活が幸せ?
- みんなと仲良くしないといけない?
ぼくにとっては疑問すぎます。
そういう日本に蔓延る常識にぼくの人生を左右されたくない。
誰が決めたわけでもないルールに勝手に縛られてつまらない人生にしたくない。
- 自分勝手でも自分が楽しければいい。
- 空気なんてクソくらえ。
- 安定こそ不安定。スリルな人生の方がいい。
- 大切にしたいと思う人だけを大切にすればいい。
そう思っています。
ぼくは代替可能な平凡なキャラになりたくない。
「大村康太」という唯一無二のキャラクターで人生を謳歌したいんです。
社会不適合でももっと自由に。自分勝手に。生きたいように。もっともっとぼくらしく…
ぼくの人生を「大村色」で染めたい。
このブログのテーマは、
です!
- 変わりものであろうと少数派であろうと、自分の人生を生きる権利がある。
- 人生に悩んでいる人でも、勇気の一歩を踏み出してなにかアクションを起こせば人生が変わる。
- いつの間にか他人の人生を生きている人でも自分の人生を生きることができる。
- 自分は自分らしく生きていくだけの価値があるし、もっと人生を楽しんでほしい。
こういうことをぼくは伝えたいです。
ぼくのブログをきっかけに、「勇気の一歩を踏み出して、自分の人生を生きる」ことができたら本当に嬉しい。
ぼくと一緒に、自分の人生を自分色に染めて、自由に自分らしく生きていきませんか?
ということで、ぼくの略歴を紹介していきます!
小学生時代は「いい子、優等生」だけど「超絶小心者」だった
小学生の時は、自分で言うのも変ですが勉強も運動もできてクラスの中心人物的存在でした。
友達とたくさん遊ぶし、運動だってとことんやる。そんな小学生時代でした。
だから小学生の時に苦労したことってほとんどないんじゃないかなと思います。
ぼくは、とにかく「失敗したくない」という考えの持ち主で完璧主義者でした。
基本的にはなんでもできた。
だけど、それは別に好きであれこれやっていたわけではなくやれって言われたからやっていた感じ。
やれって言われたことができてしまうから、いつの間にか「失敗したら恥ずかしいな」と思うようになってしまったんです。
本当は勉強も運動もできなくたってどうってことないはず。
だけど、当時のぼくは、「出来る人間」という烙印を押されてしまって息苦しい学校生活を送っていました。
「出来る人間じゃないといけない」と思っていたぼくは、好きな子の前で先生に注意されたとき、ものすごい恥ずかしさに襲われて顔も真っ赤になって、危うく存在がバーンフェードアウトしそうになる始末。
今であればなんともないけど、当時はたったこれだけで気持ちが動揺する、超小心者でした。
ちなみに自分で言うのも変だけど、小学校の時は勉強もスポーツも出来たからモテた。
ただ、自分から好きな子に告白したことはない。超チキン野郎でした。
「康太が〇〇のこと好きなんだって~」って伝えてもらう始末だ。
ほんと、そういうやつは男じゃないからね。残念な小学生だったよ。
ちなみに最近知ったのですが、その小学校の初恋の相手は結婚したそうです。
心揺れたのは言うまでもない・・・(笑)
誰から見てもいい人、出来る人でいたい。
いつの間にかそう思っていたのかもしれません。馬鹿だなぁと思います。
小学校の頃から自分の首を絞めて生きてきたんです。逆に言うとすごいですけどね(笑)
周りの目を気にして、周りの期待に応えることだけに奮闘した小学生時代でした。
中学生。ついに大村という個性が発揮され始めた
勉強を放棄し、部活(陸上競技)にのめり込む日々。
別に勉強しなくても出来たから、周りの人が熱心に勉強する感覚がまるでわからない生活。
周囲の人間は勉強、部活、学校ライフ全部を楽しんでいるのに対して、ぼくは部活一本。
完全にこの頃からズレ始めた。
なんでいちいち学校が仕掛ける学校行事とかに強制参加なんだよ?
なんでいちいち楽しくもないことで一緒に盛り上がらないといけないんだ?
学校行事とか生徒のためじゃなくて、根底にあるのは地域の人にいい姿を見せるための見せ物なんだろ?
ってひねくれた思考まで(笑)
卒業式なんかは悲しさとか一切なくて、ただただ冷め切っていました。
なんで卒業式の歌を立派に歌わないといけないの?
先生に指図されてまで歌う理由もよくわからないし、そもそもこの卒業式ってぼくらが主役でしょ?
って思ってました(笑)
部活は基本学校指定ジャージとかだったけど、そこもガン無視。
派手なTシャツ来て練習してました。
確か中学一年生の時に初めて買ったプリントTシャツに書かれていたメッセージは「鬼に金棒」です(笑)
ほぼヤンキー。学校に対するささやかな抵抗。
3年生で周りが引退し始めても、受験までしっかり学校でトレーニング。周りが受験勉強してようが関係ない。
受験期の真っ最中、わざわざ見せつけるように学校で一人でトレーニングしてました。
ほぼヤンキー。学校に対するささやかな抵抗(part2)。
みんながやっていることをなんの違和感もなくみんなと一緒に仲良く、っていう感覚が理解不能だった。
束縛されず、自由にやりたいことやりたいんだよ!
と思っていた中学生時代の大村だったのでした。
だけど、この時の部活(陸上競技)にのめり込んだ経験は、
を味わえた上で本当に価値あるものだったなと思います。
頑張れば努力が報われて成長する。
それを嫌いな勉強ではなく、好きなことで体験することができたのは、今のいろんな興味のあることに挑戦してみるスタイルにつながっているのかなって思います。
好きなことにのめり込む楽しさ。
それがすごい素敵だということを教えてくれた中学校の部活の経験です。
3.社会不適合の芽を出し始めた高校生
この頃から完全に社会不適合者っぷりを発揮し始めました(笑)
とにかくこの頃から何もかもが謎。謎。謎。
- なんで古典やらないといけないの?
⇒電子辞書の数字穴埋めゲームで遊びまくる - 国語の現代文それ自体が理解できない
⇒「実際わからないじゃないですか!」と意味不明な反抗をする - 体育はあまりやった記憶がない
⇒怪我したくないし、疲れたくないから休む - 受験期の夏期講習、冬期講習欠席
⇒代わりに堂々と部活に出没 - 受験の時の決起集会みたいなやつ
⇒「無意味。早く帰らせて」 - 学校の憩いの場はクラスではなく保健室
⇒保険室の先生と仲良くなった - 受験期にYoutubeにどハマリする
⇒浪人する
高校も部活以外に特に記憶に残ってることはないんだけど、
確実に言えることは明らかに他人とはズレていたということ。
自分が違うと思ったことは受け付けず、自分の興味のあることだけにのめり込んだって感じですね!
模試の結果とかクラスのみんなは「どうだった~?」とか見せ合って一喜一憂してたけど、ぼくはそんなの一切なかった。
勉強してないから点数取れないの当たり前だし、一喜一憂するのも時間の無駄だって思ってたから。
だからさっさとそういうのは無視して部活行ってましたよね(笑)
こんな感じで、とにかく一喜一憂することなく、部活以外の生活は淡々とスピーディーに過ごしていたので、かなり孤独な人間でした。
もうあまり思い出せないけど、ほかの人間が来る前に掃除全部ひとりでやった記憶しかない。嫌な思い出。
孤独だった分、本当に心通わすことができなかった暗黒の高校時代。
自分の軸を持って生きていたといえばそうかもしれないけど、辛かった思い出の方が多いなぁ。
全然人に助けを求めることもできず、ただただ嫌な学校が終わったら部活っていう生活を送っていました。
部活はぼくの救いでした。
嫌すぎて嫌すぎて高校の卒業アルバムを未だに開いていません。新品です(笑)
友達も同じ部活の人くらいで超少ない。
馬鹿みたいに変わり者だったからしょうがないですが、まぁ、これも人生ですよね(笑)
そんな高校生時代。
こんな嫌な思いでしかない高校生活ですが、学んだことも多いんです。
1つ目。
共通する「好き」を共有できる仲間の大切さ
進学校でしたが、ぼくの世代は市内から強い仲間がたくさん入学したんです。
勉強そっちのけで好きな部活をやる毎日。その分、勉強はみんな苦しみましたが(笑)。
好きなことを好きな仲間と共有するから、自分の競技だけじゃなくて、仲間とか先輩とか後輩とか、本当に互いに応援したい人を応援する空気。
大変だったし、何やったか明確に覚えているわけじゃないけど、本当に高校で出会った陸上部の仲間は素敵な人が多かったなって思っています。
2つ目。
自分が好きなことを貫いても周りからは何も言われないということ
ぼくは受験期の講習とか一切出ないで、ずっと部活に行っていました。
テスト週間中も部活禁止だけど、一人で勝手にやっていました。
本当はこういうことをしていると目をつけられるんです、先生に。
変わっている奴って烙印を押されるんです、同級生に。
だけど、好きを追求しまくったらそんなことはなかった。好きにやらせてくれた。
むしろ、後輩は部活に来るぼくを歓迎してくれた。
やりもしないで怯えていても、実際やってみたらなんてことなかった。
そういう経験って誰しもあると思います。
「自分勝手に、わがままに自分のやりたいことをやってもなんとかなる」
攻めてもなんとかなることをこの時期に学ぶことができました。
4.浪人期も大村は大村だった。
試験期にYoutubeにどハマリして筑波が不合格だったぼく(笑)
陸上競技と言ったら国立大学だと筑波一択だった時代。撃沈しました(笑)
後期試験で筑波を受けても受かるはずもなかったので確実に合格する別の大学を受験予定でしたが、東日本大震災で試験中止。
こうしてぼくは浪人生になったのでした。
ただ、別に浪人生になったからといってぼくの生き方は変わりませんでした。
親は大学受験まで専門学校に行かせたがっていたのですが、自由を獲得するため全力で阻止。
勉強も別に本気出せばやれると意味不明な自信があったので、浪人が決まってからはとりあえずまったりしてました。
当然予備校なんて行かない。ただの金の無駄だと思っていたから。
本を読んで、トレーニングして、高校の部活に行って、アルバイトして。。。
超絶自由人でした(笑)
受験勉強を開始したのは12月に入ってから。前回の教訓を生かして1か月前から受験勉強を開始したのですが…本番で撃沈(笑)
親に泣きながら筑波に行きたいと懇願したのですが却下されたので、とりあえず東京学芸大学を受験。そして合格。
別に行きたい大学でもなかった、というか眼中になかったので合格しても「はぁ。」って感じでした(笑)
生意気すぎる。。。
希望にあふれるはずの大学進学のはずが、楽しみの欠片もない大学進学になってしまいました。
ここからさらに地獄が始まるのでした。。。
とりあえず、この浪人期間から学んだのは、
別に何しててもどうにでもなる
ってことです。
今は、どの大学に行ったかより何をしたかが大切な時代。
浪人期間であろうと好きなことばかりしていたぼくは、やっぱり大村だったんですね(笑)
5.女の子を呼び捨てにさえできない劣等感まみれの大学時代
さぁ、いざ大学に進学したら周りの人間がものすごくキラキラして見えたんですね。
別にみんな平等なはずなのに、入学した瞬間劣等感を感じました(笑)
以降学科の男女問わずほとんど話せない日々。同学年の女子なのに「さん」「ちゃん」づけで4年間終了しました。
超他人行儀。小心者にもほどがありますよね(笑)
救いの部活動もうまくいかず悩む日々。
人と馴染めない日々。どう接していいか、何を話していいかわからない日々。
好きなはずの部活なのに、もうそこに存在すること自体に罪悪感を覚えるまでになっていました。
もちろん仲がよかった友達もいましたが、それを上回る存在の罪悪感、孤独感、劣等感。
だからぼくはとにかく練習するしかなかった。
まぁ、そんな状態だと当然結果も出るはずもないのですが、強くなることだけにシフトした大学生活は大失敗に終わりました。
今思えばもっと楽しく気楽にやれば良かったなって思いますよ。
何をそんなに気を張ってやっていたんだろうか、といつも思います。
戻れるならもう一度大学生活やり直したいレベルです。
ちなみに大学の部活の同級生の女の子にも、年下の女の子にも「さん」「ちゃん」づけ。
ぼくの青春はこの時点で終了してしまったのでした。
小心者に磨きがかかった大学生活。
そのおかげでとうとう小学校から大学まで彼女を作れず終了しました。最弱すぎる(笑)

恋愛においてはさぞかしキモかったんだろうなと思われる人間だったのだと思います。
いやぁ。ほんと大学で彼女作りたかった。おかげで恋愛の仕方わからないからね。
大学を卒業して女の子とも出会いがなくなったぼくの恋愛の可能性は0になりました。
罪悪感、孤独感、劣等感。
そしてとうとう彼女すら作ることができなかった。
さようなら、大学。
さようなら、ぼくの人生。
このままだと悲しすぎるので学んだことを(笑)
高校生活と大きく違ったのは、大学生活はとにかくビクビクしていつの間にかいろいろなことに挑戦できなくなっていたということ。
いつの間にか守りに入ってアクションを起こすことができなくなって、人生が停滞していました。
行動しなければ人生は停滞する
これを学びました。
待ってても何も状況は変化しない。
助けを求めなければ誰も助けてくれない。
中学高校って自分らしいアクションを起こしていたけど、大学で忘れていた「アクションの大切」さを学びました。
人生、「やるかやらないか」
ただそれだけなんですよね。
6.社会不適合者がとうとう社会に放たれた
誇れる能力もない。
彼女もいない。
ただただ劣等感にまみれた、雰囲気ブサメンのぼくがついに社会に放たれたのでした。
ちなみに大学時代はあまりの劣等感に就活をしていません。
そもそも就活に疑問を感じていたし奴隷のように働くのも嫌だったから、もうこれは運命ですよね(笑)
大学を卒業して実家に帰ってきたのはいいとして、やっぱり働かないといけないような空気になったので仕方なくハローワークで求人を探して就職しました。
新社会人で希望いっぱいの人の気持ちがまるで理解できませんでした。
この先お先真っ暗だって本気で思っていました。そんなぼくが就職。
まぁ、案の定馴染むことができず、神経をすり減らしながら仕事に行っていました。
無駄に働いているふりをしないといけない環境とか、人がいないところで悪口を言う環境とか、
ぼくじゃなくても成立するやりがいを感じない仕事とか、空気を読まないといけない雰囲気とか。
ダメでしたね。やっぱりぼくは社会に適合することができませんでした。
そんな感じで働いているとき、たまたまJICAのホームページを見たんですね。
大学の卒業旅行でラオスに行った時に、たまたま奇跡的に世界一周を開始したばかりの協力隊OBOGの方と出会った影響ですよ、完全に(笑)
頭の片隅に残ってたんでしょうね。
日本の仕事とか周りの環境とかに馴染めなかったぼくは、協力隊にものすごく行きたくなってしまったんです。
- 外国人の自由な感覚、生き方への憧れ
- 好きな陸上競技で生きていきたい
- 日本から逃亡したい
こんな理由の掛け算で協力隊に行きたくなってしまったのです。
仕事をしている最中に協力隊に行きたいという想いが止まらなくなってしまったので、協力隊の1次試験の締切と同時に仕事を辞めました。
ただの給料泥棒でしかなかったし、「大村、クソだな」って思われたかもしれないけど、この選択は間違ってなかったと思っています。
7.失敗が許されない協力隊試験で合格して人生最高の喜びを感じる
~~順次更新予定~~
青春時代に甘酸っぱい恋をしたかったなぁ。